第二回 猫町とチェシャ猫と 2016年1月02日 | 萩原朔太郎


 朔太郎の作品世界には、様々な動物・生物たちが登場する。
「ばくてりや」や「みぢんこ」といった微小生物から、魚類、貝類、昆虫、鳥類、ほ乳類からはては魑魅魍魎の類まで、リストアップすればちょっとした図鑑が出来るのではないかと思えるほどであるその中でも主役の座を占めるのは、なんと言っても猫だろう。朔太郎は詩集『 青猫 』の主調を「猫のように憂鬱な景色である」と宣言する。そしてその猫を自分自身になぞらえるのである。まっくろけの猫、まづしい黒鴉の猫、さびしい青猫、泥猫、くびのない猫、そこにはあらゆるネガティブなイメージが重層的にたたみ込まれている。

 その朔太郎がアリス好きで、娘に何度も語って聞かせたり映画を見に行ったりした事は、萩原葉子氏の『父・萩原朔太郎』で知ることが出来る。『月に吠える』の詩人と『アリス』との取り合わせは意外なことと感じられるけれど、ルイス・キャロルの伝記を読むと両者の接点が少なからず見いだせることに驚かされる。
 ここではその一々を記さないが、それよりも気がついたことは、朔太郎は実は童話が書きたかったのではないだろうかという事である。北原白秋ならば、その天才的な自在さで思い通りの童話を書き上げたであろうけれど、朔太郎はそんな器用さは持ち合わせていなかった。
 そして『 猫町 』が生まれたのではないか、などと考えると、ひとりの読者として心に深く突き刺さるものがある。鏡の国のアリス』の最終章で、仔猫のキティに向かってアリスが「あの夢はだれが見たの?」と問う場面がある。
 萩原朔太郎の『猫町』でも『荘子』の有名な「夢に胡蝶となる」を引いているが、ルイス・キャロルはもう一ひねりして「その夢を見たのはだれか」と見事に夢中夢の形に仕上げている。数学者・論理学者だったキャロルの面目躍如たるところだが、ひとつ気になるのは、彼が『荘子』を読んでいたかという事である。人生の大半をオックスフォード大学で過ごし、ラファエル前派の絵画を好んだというルイス・キャロルは古典の教養を重んじたであろう。ここで「古典」とは常識的には西洋古典とほぼ同義と考えられるのだが、問題はそれが中国古典に及んでいはしなかったかと言うことだ。そういう視点で『不思議の国』や『鏡の国』を読み返してみると、そのドタバタぶりは『西遊記』に、その奇想天外なキャラクタたちは『山海経』に関連付けたくなってくる。素人の強引なこじつけと言われるのを承知の上だが、仮にそうだとしてもキャロルのイマジネーションが中国古典に比肩するものだという傍証となる、というのが予め用意してある私の弁明である。何よりも彼が撮影した「中国人に扮したアレクサンドラ」(1873年)という傑作が、この思いつきを助長させる。この疑問、どうか専門家のご教示をお願いしたい。

 『不思議の国』のチェシャ猫は神出鬼没で、木の上や虚空に突然姿を現す。朔太郎の猫たちもその作品のあちこちに顔を出すから、彼らもチェシャ猫の血統を引いているのだろうか?いや、チェシャ猫はニヤニヤ笑いを残して消えたが、『猫町』の猫たちは何も残さずに一瞬にして鮮やかに消えたのだ。
これこそまさに、朔太郎の猫である。




   

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